シャワーを浴びている時に。
人生は「ただ生きる」ためにあるのではない、のではなかろうか。
そう思ったのは、いつだったか、リハーサルを済まして夜遅くシャワーを浴びていた時の事だった。当たり前の事であるのだけれど、蛇口をひねると熱湯がでて、その日の疲れや汚れを洗い流す事ができる。「うん、ボクらはとても恵まれた環境に生まれてきた。」と、その時感じると同時にこの恩恵を一体何に対して返す事ができるのだろう、と思った。世界にはとても書き表せない程ひどい環境に生を受ける人だって存在している。明日を生きる確率がとてつもなく低い人がいて、この恵まれた自分は世界に何を貢献できるのだろうか?
その時ボクはひらめきがあった。つまりそれは、「今の人生をより良く生きなさい」ということ。「自分の人生をより良く生きる事によって伝えなさい」こうひらめいたのだった。生きていく事によって起こるすべての事態に対して最善を尽くすこと。とにかく今の生を楽しみ尽くすこと。自分らしく生きること。これしかないように感じた。ボクは恵まれている。明日の生を気にしないで生きていられる。自分の生について一生懸命考える余裕がもたらされている。だからハッキリとこの生を「より良く」「より自分らしく」生きることは、それ事態が義務のようなものなのではないか。何か物事を良く為そうとする時、まずは自分が良く生きる事だ。シッカリとその生を楽しんで、生きる喜びを伝える事しかできないと思った。それはもう啓示を受けたような気がしたくらいだ。
その一方で、ある日打ち合わせの帰りに下北沢の駅で電車を待っていると、目の前で人身事故の現場に遭遇した。つまり、人が電車に飛び込んだわけである。その時ボクが思ったのは「あぁ、人はこうも簡単に死んでしまうのだなあ」という事だった。そう思うと命の儚さをすごく実感して、今できる事はどうあっても今やっとかないとイケナイ気がした。生きている事がすごく有り難い事であるなら、それを無駄にして毎日を過ごしてはイケナイ。やろうと思った事、やりたいと思っている事、これを実現するために毎日努力しなければ。そのうえで「より良く」「より自分らしく」生きていかなければならないのだ。
それでボクは音楽を作っているわけだが、常にそれが自分自身にとって嘘がなく、自分が一番解放できるものでありたいと思っている。誰かの為、何かの状況に対して、社会の動きに対してではなく、自分達が面白がる為、自分達が一番解放される為、自分達が何かを見つける為に活動している。そうする事が一番の世界に対する貢献だと信じているからだ。なんだか馬鹿みたいな言い種だが、ボクは世界に役に立ちたいと思ってるんだ、真剣に。