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2005年01月15日

フェラ・クティのファンク。

 フェラ・クティの事を知ったのは確か"Mo' Funky"リリース後のインタヴューか、レコ評で名前が出たからだ。その時不勉強なボクは(今もだ!)フェラの事を一つも知らなかったのだけれど、あまりにシンクロニシティ的にフェラの名前が目についてきたので(例えばストーンズの本を読んでて出てくるとか)買って聴いてみる事にした。そして一聴した時からボクは今までずっとフェラ・クティのファンである。そればかりかボクはフェラの息子のフェミ・クティと対談した事さえある。幸運というしかない。(対談の内容は、いかにリーダーというものは大変かというモノだった。音楽的なことのみならず生活面においてもリーダーでなければならないと言っていた。例えば誰よりも早起きするとか、ダラダラしないとか。今考えると興味深いものですね。)
 あのパーカッションが全体を支配し、小気味良くズンズンとクドくウネっていく彼独特のファンクは、例えばアメリカのファンク・プレイヤーがもっている芸能チックな下世話さがなく、いかにもストイックでそこがボクの大好きな所だ。ファンクではあるのだけれど、まるで未整理で何が飛び出すかわからない魅力がある。民族音楽としてのバックグラウンドについてはくわしく語れないが、やはりアフリカ/ナイジェリア人として自分自身の音楽をやっているという事なのだろう。だからこそフェラの音楽はあの説得力を持つ。あのリズムがカッコ良いからといってそこだけ「アレンジとして」持ってきてもフェラ・クティ程カッコ良くならない。
 そこでハタと考えるのだが、我々が持つナショナリティとは一体何なのだろう。日本の音楽。演歌とか民謡とか?ボクにとってそれらの音楽はファンクより遠い気がするし、無理がある。繋がりがないのは残念だと思うが、今さら無理矢理勉強したところでアフリカの民族音楽を勉強するの�あまり変わりないのではなかろうか。これは難しい命題である。一生かけて付き合っていかねばならないものであろう。とはいえ答えを求めるのはやめようと思う。音楽が現われた時、その時に自分に問うことだ。「これは自分にとって間違ってない音楽なのか。」そのシンプルかつ厳しい選択によっていずれ導かれることだろうと思う。
 話は脱線してしまったが、フェラが好きだと言いつつも実は一時期まったく聴けなくなってしまっていた時期があった。ちょうど'01年から一昨年くらいまでの間である。あまりに聴き過ぎたという事もあるのかもしれないけれど、その歌詞のもつ攻撃性が嫌になったからというのが第一の理由だった。フェラの歌詞は知ってる人もいると思うけど、ほとんどが強烈な政治批判だ。怒りの音楽なのである。その怒りに素直に反応してしまうと、ひどく疲れてしまう。ボク自身がその頃から自分の「怒り」との戦いが始まっていたので、とてもじゃないがフェラの音楽なんか楽しめなかった。「怒り」には大きなエネルギーを生み出す作用はあるものの、「怒り」のまま吐き出すと何事も良く変化し得ない。それはネガティブなエネルギーだからだ。だからボクはそのエネルギーを上手くコントロールする自分なりのやり方を模索しなければならなかったし、苦労の甲斐あって今では随分出来るようになったと思う。まぁ、まだ完璧とは(口が裂けても)言えないのですが……。兎に角それをボクは経験する事で学んできたのではっきり分かる、「怒り」で何かを成し遂げようとするのは本当に大変だという事を。色々な人が傷付く事になるし、何より自分はもうボロボロになってしまう。「怒り」はエネルギーであって、それを使うのは自分次第である。ただただ一時の感情に支配されてはいけない。
 そんなフェラだが、最近読んだ本「武器なき祈り(フェラ・クティ〜アフロビートという名の闘い)/板垣真理子」(三五館)によると晩年は闘う事よりもスピリチュアルな物の考え方に移行してたらしい。何十年も闘ってきた者の実感が読み取れる。それを「腰抜けになった」とか馬鹿な批判をする輩もいるそうだが、フェラの方が圧倒的に正しい。そんなフェラにボクは一度話を聞いてみたかったと思う。

BGM;Gentleman/Everything Scatter
Opposite People/Sorrow tears and Blood
Roforofo Fight(全てFela Kuti)